Cicada - Canon ver.2

夏の朝、鬱陶しい目覚ましに叩き起こされ気だるいを感じ、窓を開ける。姿の見えないミンミンゼミがミンミンミンミン鳴いており、ますます気だるさが湧き上がる。シャワーを浴びた後、少し机に向かいカタカタとキーボードを叩き、昼過ぎに家を出る。アブラゼミのジージージージーという忙しない鳴き声が夏の熱気とともに体にまとわりつく。煩わしさと倦怠感を感じる一方でやる気もでてくる。仕事が終わり帰宅しようと外に出ると、冷たい風が吹き、ヒグラシのカナカナカナカナという鳴き声が森の声のように聞こえてくる。そして、夕暮れとともに一日の終わりを告げ、達成感とともに暗澹とした気分になる。

『セミ』という同一種であるにも関わらず、彼らの鳴き声は多様であり一日を通じて我々に様々な感情を想起させる。セミの鳴き声が聞こえる時、我々は彼らの存在を一個体として意識しない。我々はセミをもっとアンビエンスな存在として我々を取り巻いていると認識する。さらには、小さくも大きくもある調和のとれた幽体の存在(エコロジー)も漠然と意識させる。

雑然とした鳴き声を発するセミたちに通底する調和性の顕在化

様々な感情を想起させるメディウムとしてセミを用い、また個体としてではない観念的な環境としての(環世界としての)『セミ』の先触れへ触れようとした。

セミは子孫を残すために他の種や他のオスと競い一生懸命に鳴く。それによって生み出される騒音は、雄大であり、我々に彼らをアンビエンスなものとして意識させる。

しかし、それらは混沌としており調和や秩序は感じ取れないため、あまりにもアンビエンスでユビキタスなものとして我々の空間に存在しており、環境としての(環世界としての)セミを感じ取ることは難しい。

本作品は彼らをコンピュータに接続させることによってそれらの顕在化を試みている。

単一個体としての『セミ』のメロディーから始まる本作は、次第に様々なパートのメロディーを奏でる個体が加わっていき、最終的には「パッヘルベルのカノン」の四重奏が奏でられる。

4匹の異なる種類のセミは電気刺激によって鳴き声を制御されてメロディーを奏でている。セミによって奏でられる「カノン」は外で鳴いているセミの騒音と同じ混沌としたものであるが、耳をすますと調和のとれたメロディが存在している。

それは、煩わしく、雄大であり、どこか切なさを感じさせる。

セミの鳴き声を音楽として聞いた後に外にでてセミの鳴き声を聞くと、我々の様々な感情は想起され彼らがアンビエンスな存在であることに注意が向けられる。

アンビエンスで掴みどころのない環境としてのセミを知覚する手がかりになるかもしれない。

YugaTsukuda - ArtWork

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